昨日、長女に赤ちゃんが生まれました。
「お孫ちゃんが生まれるまでさぞかし昨日はドキドキあわあわしたでしょう?」とか、「感動して泣いちゃった?」とか聞かれました。
聞かれて、わたし感じたことを少し書いても良いですか。
初孫が生まれたこと、は、庭の花が咲いたことや虹をみつけたのとおんなじぐらいのよろこびで。
自分でもびっくりするほど心が穏やかでした。
はらはらもせず不安にもならず、一番良いように進むんやろなあとなぜかわからない安心感に包まれて分娩台の娘の身体を撫でていました。
昨日6月30日が初孫の誕生日になって、急に一年のうちで大切な日になって。
だけど誰かの悲しい記憶の日かもしれなくて。
よろこびも悲しみも感じてしまうのは人間で。
全ての事柄に、本当は良いも悪いも無くって、全ての事柄はただ存在しているだけフラットな状態で。
ひとが生まれるのも、ひとが天に召されるのも。
全てはフラット。平ら。
そんな風に感じました。
そしたらね。
今日、お昼まで産院にいて午後からお客様をお迎えするためにサロンに戻ってきたときに
“それ”はありました。
最初は何か分からなかったから、そばまで行ってみました。
サロンの前の脇道に、すずめの雛鳥が仰向けに地面に落ちていて。
道の真ん中に、まわりには何も巣がありそうな木は無くて。
もしかしたら、カラスか何かが巣から獲ってきたのを落としてしまったのかもしれません。
弱々しく羽を動かしていたのですが、そのうちにわたしの手の中で動かなくなりました。
まだあたたかみの残る雛鳥を、どうしてあげられる事もできずに、くちばしの黄色いまだ羽の生え揃っていない雛鳥を、ただ撫でていました。
柔らかそうな草の上において手を合わせました。
さっき初孫の頬をこわごわ触れた手で。
全ての事柄はフラット。
そう思った、そのすぐあとに。
神さまに、
本当にそうかい?と問われたようにも思います。
全てのことに良いも悪いもなくて。生まれるのも天に召されるのも。
わたしが、すずめの親鳥でも。
そう思えるのか。
泣くでしょう。叫ぶでしょう。
どうして我が子が。と。
でもしばらくしたら、この悲しみを、悪い過去の経験とは思わないのかもしれません。
うまく書けないんだけど。
すずめのことをおもって、ちょっと泣いて。
書いておこうと思いました。